日本で一番影響力のない、三日坊主の危険を含んだ日記
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思いやりについて本気出して考えてみる。
思いやりってもんは、あなたの為にっていう言葉とよく似ている気がする。
やりすぎればお節介だし、満足感があれば思い込みだ。
その迷惑にならない微妙な塩梅が思いやりになるのだろう。
そもそも思いやりなんてもんは、あなたを思いやってますなんて口に出すものではない。
たとえ相手が迷惑がって、その時はお節介だったとしても、自分が相手の事を考えていれば、相手がどんな気持ちだったとしてもその時はそれでいいはずだ。
どうしても分かってくれないんだろうとか、いつかは分かってくれると心の中で思うだけで充分であり、自分はこれだけあなたの事を思いやってるんだぞ的な事をわざわざ口に出すような事ではない。
口に出した瞬間に、それはお節介でも思い込みでも、ましてや思いやりでもなく、ただの押し付けに成り下がる。
押し付けは本当に迷惑だ。
思いやりという名の押し付けをしてくる人間は、「自分はこんなにもあなたを思いやってあげている優しい人間」と信じきっているから、それが押し付けになっていることなんて欠片も思っていない。
本当に思いやりがある人っていうのは、「自分はあなたを思いやっている」なんて発想まるでなくて、それが普通だから、口から言葉になって出てくる事なんてまずない。
思いやりの行動だって、言わなきゃ分からないでしょう、という押し付ける側の言い訳は通用しないはずだ。
そもそも言わなきゃ分からない時点で、それはもう思いやりでもなんでもなく、ただの主張で押し付けだからだ。
自分の心が、相手の心を響かせることができたなら、何かをいう必要はないし、それが本当の思いやりだ。
ただ、必ずしも相手の心が響くわけじゃない。それが、お節介であり思い込みだ。
お節介は相手が感じる事で、思い込みは自分が感じる事。
お節介は、自分が思いやりを受けたとき、がんばってくれているけど功を奏してないだとか、うっとおしいと感じてしまった時に感じる場合が多い。
思い込みは、自分が思いやりを示したとき、相手が本当はどう思っているかは気にせず、相手の為にがんばったと満足している自分自身を感じる時に多い。
与えるか与えられたかの違いで、心情は変わってくるが、このどちらかだった場合は、その後思いやりに変わる可能性は充分ある。
お節介だと感じてしまったならば、どうしてそれを自分にしてくれたのかを考えれば、相手が自分を思ってくれていたのだと気付ける。
思い込みだと気付いたならば、相手に迷惑じゃなかったかどうか尋ねれば、次はもっといいことをしてあげられるはずだ。
だが、押し付けは駄目だ。
押し付けは完全に「意見を言う本人」の為、極端な言い方をすれば自分自身の為に相手を都合よく動かそうとしている行為だ。
思いやっているから、○○したほうがいい。的な言い方をしてしまえば、相手には「ああ、○○なんだな」という意識を植え付けられる。
本当は○○じゃなくて××だって構わないにも関わらず、だ。
そして、少しでもそれに××だろ的に反論しようものなら、こんなに思いやっているのにという言葉が返ってくるデススパイラル。
正直最悪だ。
それに、思いやりが本当にある人は、どんな小さな悩みだろうと、ばかにしたりせず、親身になって考えてくれる事だろう。
これからは、口だけ思いやり星人は上手くいなして、平和に行きて行きたいものである。
思いやりってもんは、あなたの為にっていう言葉とよく似ている気がする。
やりすぎればお節介だし、満足感があれば思い込みだ。
その迷惑にならない微妙な塩梅が思いやりになるのだろう。
そもそも思いやりなんてもんは、あなたを思いやってますなんて口に出すものではない。
たとえ相手が迷惑がって、その時はお節介だったとしても、自分が相手の事を考えていれば、相手がどんな気持ちだったとしてもその時はそれでいいはずだ。
どうしても分かってくれないんだろうとか、いつかは分かってくれると心の中で思うだけで充分であり、自分はこれだけあなたの事を思いやってるんだぞ的な事をわざわざ口に出すような事ではない。
口に出した瞬間に、それはお節介でも思い込みでも、ましてや思いやりでもなく、ただの押し付けに成り下がる。
押し付けは本当に迷惑だ。
思いやりという名の押し付けをしてくる人間は、「自分はこんなにもあなたを思いやってあげている優しい人間」と信じきっているから、それが押し付けになっていることなんて欠片も思っていない。
本当に思いやりがある人っていうのは、「自分はあなたを思いやっている」なんて発想まるでなくて、それが普通だから、口から言葉になって出てくる事なんてまずない。
思いやりの行動だって、言わなきゃ分からないでしょう、という押し付ける側の言い訳は通用しないはずだ。
そもそも言わなきゃ分からない時点で、それはもう思いやりでもなんでもなく、ただの主張で押し付けだからだ。
自分の心が、相手の心を響かせることができたなら、何かをいう必要はないし、それが本当の思いやりだ。
ただ、必ずしも相手の心が響くわけじゃない。それが、お節介であり思い込みだ。
お節介は相手が感じる事で、思い込みは自分が感じる事。
お節介は、自分が思いやりを受けたとき、がんばってくれているけど功を奏してないだとか、うっとおしいと感じてしまった時に感じる場合が多い。
思い込みは、自分が思いやりを示したとき、相手が本当はどう思っているかは気にせず、相手の為にがんばったと満足している自分自身を感じる時に多い。
与えるか与えられたかの違いで、心情は変わってくるが、このどちらかだった場合は、その後思いやりに変わる可能性は充分ある。
お節介だと感じてしまったならば、どうしてそれを自分にしてくれたのかを考えれば、相手が自分を思ってくれていたのだと気付ける。
思い込みだと気付いたならば、相手に迷惑じゃなかったかどうか尋ねれば、次はもっといいことをしてあげられるはずだ。
だが、押し付けは駄目だ。
押し付けは完全に「意見を言う本人」の為、極端な言い方をすれば自分自身の為に相手を都合よく動かそうとしている行為だ。
思いやっているから、○○したほうがいい。的な言い方をしてしまえば、相手には「ああ、○○なんだな」という意識を植え付けられる。
本当は○○じゃなくて××だって構わないにも関わらず、だ。
そして、少しでもそれに××だろ的に反論しようものなら、こんなに思いやっているのにという言葉が返ってくるデススパイラル。
正直最悪だ。
それに、思いやりが本当にある人は、どんな小さな悩みだろうと、ばかにしたりせず、親身になって考えてくれる事だろう。
これからは、口だけ思いやり星人は上手くいなして、平和に行きて行きたいものである。
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