日本で一番影響力のない、三日坊主の危険を含んだ日記
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新科目「情報」、受験対策にすり替え 入試に出ず
という記事が朝日のサイトに載っていたのを読んだ。
なにがどう間違ってるかって言えば、情報の科目ってのは、昨今自由に使えるようになったインターネットなどによって情報が氾濫する中で、自分で情報を収支選択する能力を身に着けることが目的のはずだからだ。
だが、思い返してみれば、情報の授業はそんな事殆ど教えていないのが思い出される。
確かに教えるという観点で見れば、情報リテラシーってのは通常生きる世界の常識やマナーを情報の世界に置き換えるようなもので、道徳を説くことに似ているかもしれない。
だが、現行の教師が情報を教える場合、その任につくのは数学や理科の教員だ。
こうなってくると情報の科目で教える内容は、情報の中の話。所謂情報をよりよく扱う方法ではなく、機械はどうやってモノを考えているか、0と1の世界を教える方向に進む。
所謂計算の世界だ。
それでは折角情報の科目を問題なく履修していても、まったく情報リテラシーは身につかず、何のための情報の授業だったのか分からないことになる。
情報を教えなければと考えた立場からすれば、教えて欲しいのは0と1の世界ではなく、現代は情報を受け取るだけの側ではなく、インターネットという媒体を使えば自分たちも簡単に情報を発信する側に回り、情報を発信する際その情報を発信したという覚悟がいる事のはずだ。
だからこそ今のままの教科書では情報が数学に置き換えられてしまったりするのは否めないのだ。
教科書が悪いなら教師自ら教科書を選べばいいなどという簡単な問題でもない。
学校というものは使わなきゃいけない教科書っつーもんがもう決まっていて、一教師がその教科書を無かったことにする事なんて出来ない。
だってそれが国から教えろって言われている内容を本にしたものなのだから。
そう、教科書が変わってくれなければ、教師はその教科書を使って授業を行うしかない。
しかし、高校で情報リテラシーがうまく進むかどうかは、やはり義務教育中の道徳の授業がどれだけ生徒に浸透したかどうかに左右される気がする。
ネットっていったって、結局現実世界であることに変わりはないのだから。
という記事が朝日のサイトに載っていたのを読んだ。
なにがどう間違ってるかって言えば、情報の科目ってのは、昨今自由に使えるようになったインターネットなどによって情報が氾濫する中で、自分で情報を収支選択する能力を身に着けることが目的のはずだからだ。
だが、思い返してみれば、情報の授業はそんな事殆ど教えていないのが思い出される。
確かに教えるという観点で見れば、情報リテラシーってのは通常生きる世界の常識やマナーを情報の世界に置き換えるようなもので、道徳を説くことに似ているかもしれない。
だが、現行の教師が情報を教える場合、その任につくのは数学や理科の教員だ。
こうなってくると情報の科目で教える内容は、情報の中の話。所謂情報をよりよく扱う方法ではなく、機械はどうやってモノを考えているか、0と1の世界を教える方向に進む。
所謂計算の世界だ。
それでは折角情報の科目を問題なく履修していても、まったく情報リテラシーは身につかず、何のための情報の授業だったのか分からないことになる。
情報を教えなければと考えた立場からすれば、教えて欲しいのは0と1の世界ではなく、現代は情報を受け取るだけの側ではなく、インターネットという媒体を使えば自分たちも簡単に情報を発信する側に回り、情報を発信する際その情報を発信したという覚悟がいる事のはずだ。
だからこそ今のままの教科書では情報が数学に置き換えられてしまったりするのは否めないのだ。
教科書が悪いなら教師自ら教科書を選べばいいなどという簡単な問題でもない。
学校というものは使わなきゃいけない教科書っつーもんがもう決まっていて、一教師がその教科書を無かったことにする事なんて出来ない。
だってそれが国から教えろって言われている内容を本にしたものなのだから。
そう、教科書が変わってくれなければ、教師はその教科書を使って授業を行うしかない。
しかし、高校で情報リテラシーがうまく進むかどうかは、やはり義務教育中の道徳の授業がどれだけ生徒に浸透したかどうかに左右される気がする。
ネットっていったって、結局現実世界であることに変わりはないのだから。
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