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日本で一番影響力のない、三日坊主の危険を含んだ日記
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自分という個人は嫌いではないが、人間という区分での自分は余り好きではなくて、いつも矛盾な気持ちがついて回っているように思う。
人間は、言葉を持って偉くなった気分で”人間”は”動物”なのだということを忘れているというか、なぜか区別しようとしたがる。



動物である以上、結婚という概念も恋愛という概念も事実上DNAを残していく行為の過程上のものだ。
その中に不義があるだの不一致があるだの、そういった概念が入ること自体が可笑しい。
確かに自然界の中には一生の番を持つ鳥だっている。
番でなければいけないのなら、鳥にだって出来ることをできていない人間は、DNAを残すという事にかけては鳥にも劣る。
自分は正直自分のDNAを世に残していく事をしたくない。
その点を見ると自分は”動物”として不完全だ。


自分の血が残っていくことがそんなに必要なのだろうか。
重要なのは血じゃなくて意思や志であって、血を分け合ったってそこがかみ合わなければ自分がこのまま残っていくなんて無理だ。
血を分け合っていれば分かり合えるとか、継いでくれるとか、そんなのはっきり言って幻想。
命を分かつときから他人であることに違いない。
結局自分の意思を伝えなければいけないならば、そこに血なんてものは些細なものでしかない。
そう考えると後継者を作ろうとしている人たちは”動物”としての役目を充分に果たしているのだなと思える。




自分が死んだら、お墓も仏壇も何もいらない。
その骨は宇宙か海に沈めてほしい。
死んだ人間が生きた人間の時間を幾分かでも縛るのは間違っている。
故人を尊ぶ気持ちは個人の自由であって、それを強要してはいけない。
祖先をないがしろにしろと言っているわけではない。
敬いたいときはお墓の前や仏壇の前にいなくたって出来るし、むしろわざわざ行くこと自体がただの形式っぽくて、決まりだからやるみたいな感じで嫌だ。
気分を出すためにそうすることは、個人の自由なのだからいいと思う。
そんなになぜお墓にこだわるんだろう。
焼けた肉塊の残りを残してどうだっていうんだ。
エジプトみたいにいつか生き返るっていうなら分かるけれど、土地も無いのに墓を造りたいその心が理解できない。

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